舞台
1954年3月劇団東芸研究生九十業公演で初舞台阿木翁助咲く演出「長女」で主演。1958年劇団東芸本公演「あなた買います」で主演。1960年芸術祭参加 東芸本公演「破戒裁判」で主演。三幕二場の三時間をこえる作品でこの演技が演劇界で認められたようで本人自身もプロとしてやっていけるのではないか、という一種自信めいたものをもった。その頃劇団が三分裂し、本人は劇団主流派に残る。当時はよくあったことだ。
高田馬場に東芸劇場をつくり、ホームグランドができることによって公演回数も増え、業界から演劇人として認められるようになった。後進の育成にもつとめ。40才~50才代には、田井洋子作「霧の中」ほしみつを作「竹の花」中井良夫作「恭々しき貧慾者」等の佳作を演出主演で発表し、ほとんど独力で舞台を作り続ける。東芸劇場がバブル崩壊でなくなった後は、他劇団への客演で『ラパン・アジールに来たピカソ / Picasso At The Lapin Agile』(ブロードウェイの上演作)朝丘雪路主演の「ママ泣かないで」「うちのテレビにゃ色がない」等何本かの佳作に出演商業演劇にも島倉千代子劇団など東京、名古屋、大阪の劇場にも出演。




テレビ・ラジオについて
1954年NHKTVが開局初の連続ドラマ「夢見る白鳥」の第五話に出演。生放送のため、NHKにも記録なし
その後1967年~1968年まで民放のTV局も開局するが生放送のため記録なしVTRが開発されて、NHK始め各局が記録を掘り起こしているが欠けている部分が多く、出演者に個人的に聞きまわっている状態だ。
ラジオもドラマは残っているが、DJ、トークショーなどは生放送で記録なしテレビと共に育ち過して来た60年である

映画
映画本数は芸暦の割には少ない。
「shall we ダンス?」。日活映画「さくら盃義兄弟」「さくら盃仁義」共に高橋英樹主演。東映「ああ決戦航空隊」東宝「お庭香」企画・監督・出演「幻想のパリ」独立系配給で東京、名古屋、大阪、新潟で封切


映画「幻想のパリ」
俳優を生業とさせて頂き、夢は映画監督だった。
まだ駆け出しの時、出番が終わっても、他の俳優仲間は休憩に行くが私は休まず作品の作り方を観ていた。そうやって勉強していたのだ。TV作品のドラマは前日飲み過ぎて監督が酔いつぶれると、私が監督をやった。毎日観ているので流れが全て分かるから出来るのである。そうやって30歳で7本監督作品を作った(全日本交通安全協会の映画)ラッキーなプレゼントのお陰で夢が叶った訳であるが「幻想のパリ」パリロケはたった21日間で撮影が終了した、いや、させたのだ。
パリは撮影制限に非常にうるさく、全てパリ観光局の許可を取らないと撮影出来ない。最終的には隠し撮りで上手い事やったが誰かが通報すると即、パリ警察が飛んで来る。全く無駄の無い時間割り、台本変更したりエッフェル塔をバックに数分撮るのだってピーポーピーポー飛んで来る!即撤収。パリ警察とのせめぎ合いの撮影とも言うべきか。
アランドロンに出演交渉を無謀にもしてみた。出演料1日3千万!とてもじゃないけどムリなので丁重にご辞退させて頂いた訳だが「じゃあ」と言ってアランドロンがロケーション用の車を1ヶ月貸してくれた。窓の無いマイクロバスを改良した物でとても豪華なロケバスだった。お陰様で撮影中はゴージャスな気分を満喫させて頂いた。
言ってみるものである。


映画「幻想のパリ」スポンサーとの出会い
オールパリロケで行われた。監督業は野球を始め舞台もやって来たが、映画監督は私の生涯の夢だった。原作の「パリのため息」に出会い、主演はオーディションで新人の大川陽子。共演 中尾彬、松尾嘉代である。
ある日、妙高高原クラブでゴルフをした。時はバブル全盛期。ある企業のお坊ちゃまとフルバックでプレイした。私はいいディショットで打った!ドライバーで300ヤード飛ばし2ショット目、アルバトロスで"入った!!"
その夜、8人の祝賀パーティーでバブルのお坊ちゃまが「森山さん、アルバトロスおめでとうございます。お祝いに何が欲しいですか?」「映画が撮りたいなあ~」「へえ~お幾ら位かかるんですか?」「2億円」「ではここに口座を書いといて下さい」
酔った勢いで記入したがこれっぽっちも信じてなかった。翌日の事、みずほ銀行久喜支店の支店長が飛んで来た!「ぜひ定期にお願いします!」キャスト決定後2ヶ月でクランクイン。オールスタッフ機上の人となった。

一世風靡したマンダムのCM
チャールズ・ブロンソンがワイルドに顎を撫でて「ン~~ マンダム!」この下品な声を作るためにショートピース1箱吸い、大声を出しがなりたて喉を潰し、苦労した。大切な声帯をそこまでいじめて出来上がった一声である。

舞台・TV・映画 出演作品
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